阿豆佐味天神社 砂川の鎮守さま
(撮影 2015年11月)
立川市、砂川町の阿豆佐味天神社です。
阿豆佐味天神社は、寛永六年(一六二九)頃、村山郷殿ケ谷(瑞穂町)から勧請されました。(教育委員会パネルより)
玉川上水水路周辺は、開削前には水を得ることが難しかった土地がほとんどです。
そのため、玉川上水開削後(1654年)のタイミングや、江戸中期の武蔵野新田開発時にできた村が多くなっていますが、砂川村はずいぶん早く(1609年)に開拓がはじまりました。
村山郷岸村(現在の武蔵村山市です)の村野氏が幕府に許可を願い出て、開発をはじめたのだと言われています。
もちろん、まだ玉川上水が無く、まともに水を使えない状態でどこまでの規模で村を作ることができたのかは分かりませんが...
この阿豆佐味天神社も、その開拓途中のタイミングで勧請されたことになります。
境内には砂川ゴボウについてのパネルもあり。
江戸時代から昭和にかけての江戸・東京のゴボウは、東の「滝野川ゴボウ」に対し、「砂川ゴボウ」は西の代表でした。うーん、「砂川ゴボウ」は名前だけ聞いたことはあったけれど、滝野川ゴボウの名前は初めて知りました。勉強不足...
さて、多くの境内社があります。
その一つがこちら、蚕影神社。名前の通り養蚕の守り神です。
1860年(安政7年)2月に勧請されたとのこと。幕末ですね。
明治期の多摩にとって、養蚕はかなり重要な産業でした。
この蚕影神社が1860年に勧請されていることで、砂川では幕末の時点で養蚕が盛んに行われていたことが分かります。
こちらの蚕影神社は、立川市在住の世界的ジャズピアニストである山下洋輔先生の、ちょっとしたエピソードにより「猫返し神社」とも命名されました。
おそらくそれ以降に作られたと思われる、石の猫。
にゃーん!
ちなみに、山下洋輔先生は、私の音大時代の師でもあります。
神社境内の石造物は情報の宝庫です。
修復や建て直しを行われることが多い木造社殿と違い、石灯籠や狛犬は江戸時代のかなり古いものがそのままの姿で残っていることが多いのです。
嘉永元戊申歳(嘉永元年)
九月吉日
砂川村 願主 村野榮左衛門
「村野」は砂川家の旧姓(という言い方でいいんだろうか)ですね。
嘉永元年は1848年です。
近くに、砂川村の教育についてのパネルもあり。
阿豆佐味天神社の神官であった宮崎氏が、自身の屋敷に寺子屋を開き、手習いを教えたとのこと。
実際、江戸時代の農村にも庶民教育はかなり普及していたようです。
「江戸文化」は何度かブームがあり、多くの本が出版されていますが、その中心は町人文化。
町人の暮らしを紹介する本はあふれていますが、農家の暮らしについて語られている本は少ないのがなんだかもったいない。
江戸時代の農村、特に多摩地域ではハイレベルな教育が行われていたようです。
だからこその、維新後の自由民権運動。「五日市憲法」が作られたのも多摩です。
開国後、輸出をするため多摩と横浜の往来が盛んになり(絹の道)、異国の文化を吸収するチャンスにも多く恵まれたようです。
このあたりもいつかじっくり調べてみたい!